あるツイートに「近年、嘆かわしいこと」として、「地位も名誉もある分別盛りの人物が、大手を振って、明らかに間違ったり非常識極まりない発言をしている」とあった。たまに行く書店で、平積みにされているタイトルを見ても、確かに「蔓延している」と思ってしまう。
帯に「読まなければならない本、というものがあった…。」とあるこの本。いわゆる「教養主義」は、旧制高校生のものではなく、文庫本や新書、総合雑誌が普及した戦後、大衆的教養主義としてクライマックスを迎え、大学の大衆化で卒業生たちが専門教育と無縁な職業に就く時代になって「凡俗への居直り」「社会への適応」として忌避されるようになった、と分析する。
通産大臣などを務めた前尾繁三郎氏を挙げ、「教養とは…必ずしも『得をする』(立身出世)ものでもなかった。自分と戦い、時には周囲に煙たがられ、自分の存在を危うくする、『じゃまをする』ものだった。ここに教養の意味の核心部分がある…」と、「教養」とは何かを分かりやすく書いている。
著者は大衆的教養主義の真っただ中を過ごした1942年生まれの教育社会学者。縦横自在に引用された参考文献には、「読まなければならない」のに「読んだことのない」本がずらりと並び、読み終えるまで立ち往生の連続だった。
私が高校、大学生のころ、理系へ進むなら歴史や文学を、文系に進むなら自然科学をというふうに、幅広く円満な“教養”こそ人生にとって大切、といわれていた。しかしながら、いかんせん教養主義が没落し始めたころ。帯にひかれて買った本を前に、自分の不勉強をつい、時代のせいにしたくなった。
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